GPUコンピューティングの世界は、これまで長らくNVIDIAのCUDAが支配的地位を保ってきた。研究機関から産業界、そして生成AIを活用するスタートアップに至るまで、多くのユーザーがCUDAに依存してきたのは事実である。しかしAMDが発表したROCm 7.0は、その構図に亀裂を入れる存在となりつつある。本稿では、ROCm 7.0の技術的革新からCUDAとの比較、開発者体験、市場への影響、そして導入シナリオに至るまで、冷静かつ徹底的に検証していく。結論から言えば、ROCm 7.0はCUDA独占を即座に終わらせるものではないが、明らかに現実的な対抗馬に成長した。
実用水準に到達したROCm
CUDA互換性の飛躍
ROCm 7.0における最大の進歩は、HIPコンパイラの最適化によってCUDA Runtime APIの98%をカバーしたことにある。これにより既存のCUDAコードは最小限の修正でAMD GPUに移植できるようになり、長年「互換性が低い」と批判されてきた弱点を克服した。
メモリ管理と低精度演算
統合仮想メモリ(UVM)の改善によりCPUとGPU間のデータ転送効率が大幅に向上した。さらにFP4やFP6、FP8といった低精度形式への最適化が進み、大規模言語モデルの推論で顕著な効果を発揮している。AMDの公表値では、ROCm 6.2と比べて推論性能が最大3.5倍に達し、特定条件下ではCUDAを凌駕する。
専用ライブラリの成熟
数値計算向けライブラリであるrocBLAS、rocFFT、rocSOLVERも刷新され、行列演算やフーリエ変換など科学計算分野でCUDAを上回る性能が確認されている。これらの改善により、ROCmは研究用途から実運用に耐えうる基盤へと成長した。
ワークロードごとの優劣
推論タスクでの優位性
大規模言語モデルの推論においては、Instinct MI300XとROCm 7.0の組み合わせがH100+CUDAを最大15%上回る結果を残した。低精度演算の活用が奏功しており、生成AIや自然言語処理の分野でAMDの存在感は急速に増している。
科学計算での成果
分子動力学や流体力学シミュレーションといった科学計算分野でもROCmは優位に立つ。アーキテクチャの特性とライブラリの最適化が相まって、これまでCUDAが優位とされてきた分野で逆転が始まっている。
学習性能の現状
一方でディープラーニングの学習性能ではCUDAが依然として優勢だ。ただし差は縮小傾向にあり、ROCmは条件次第で実用的な性能を発揮する段階にある。総じて言えば、推論と科学計算はROCmが脅威となり、学習ではCUDAの優位が残っている。
ツールと環境の成熟
プロファイリングとデバッグ
ROCm 7.0ではROCProfilerが刷新され、GPU使用率やメモリ利用量、カーネル実行時間の可視化が可能となった。ROCgdbも改善され、GPUコードのデバッグは以前より直感的に行える。CUDAと比べた開発体験の差は大きく縮まったと言える。
導入の容易さ
Docker Hubに公式ROCmイメージが登場したことにより、必要な依存関係をすべて含んだ開発環境を数分で構築できるようになった。従来のROCmが抱えていた「導入が煩雑」という印象は大きく改善されている。
フレームワークとの統合
PyTorch、TensorFlow、JAXといった主要フレームワークがDay-0でROCmをサポートしており、ユーザーは環境構築に手間取ることなくすぐに利用できる。この点も、エコシステムの成熟を示す重要な要素である。
CUDA一強体制の揺らぎ
シェア拡大の兆候
調査会社のデータによれば、2024年第3四半期にはデータセンター向けGPU市場でAMDのシェアが前年同期比18%増加した。これはROCmの実用性が市場に評価されつつある証拠である。
オープンソースの強み
ROCmが完全オープンソースであることは、CUDAにはない大きな特徴だ。企業はベンダーロックインを避けつつ、自社に最適化したソリューションを構築できる。これは長期的な投資判断において大きな意味を持つ。
競争環境の変化
NVIDIAは依然として強力な供給体制とエコシステムを維持しているが、ROCmの台頭は価格や戦略面での圧力となる。競争が激化することで市場全体が健全化し、ユーザーにとっての選択肢が広がる。
乗り越えるべき壁
ROCm 7.0にも課題は残る。最大の障壁は既存CUDA資産の移行コストである。長年積み重ねられた最適化コードや運用ノウハウをROCmに移すには大きな労力を要する。
さらにハードウェアの制約も無視できない。ROCmの真価を発揮できるのは最新のInstinctシリーズなど限られたGPUであり、NVIDIAのように幅広い製品を網羅しているわけではない。供給体制においてもNVIDIAが優位に立つ。
加えて、ROCmの一部機能はまだプレビュー段階にあり、すべてのユースケースでCUDAと同等の安定性を保証できるわけではない。エコシステム規模でもCUDAが圧倒的に優位であり、この差を埋めるには時間が必要である。
誰がROCmを選ぶべきか
ROCm 7.0はすべてのユーザーに即導入を促すものではない。しかし、特定の状況では有効な選択肢となる。たとえばクラウド環境を用いて実験を重ねたい研究者にとっては、AMD Developer Cloudが初期投資なしでの導入を可能にする。
また分子動力学や流体力学といった科学計算を重視する研究機関では、ROCmがCUDAを上回る性能を示しており、導入によってコスト削減と性能向上の両立が可能になる。さらに、大規模言語モデルの推論を主軸とするAIサービス企業にとっては、ROCmの優位性は直接的な競争力となるだろう。
NVIDIA GPUの価格高騰や供給不足に直面する企業にとっても、AMD GPU+ROCmの組み合わせは現実的な代替策である。特にCUDA資産に縛られていない新規プロジェクトであれば、導入障壁は格段に低い。
CUDA独占を終わらせる「きっかけ」
ROCm 7.0はCUDA独占を即座に終わらせる存在ではない。しかしその性能、開発者体験、エコシステムの成熟度はいずれも大きく改善され、推論や科学計算ではCUDAを凌駕する実績が出ている。
結論として、ROCm 7.0はCUDA一強体制に風穴を開けた「きっかけ」である。完全な逆転はまだ先だが、GPU市場に健全な競争をもたらし、ユーザーに新たな選択肢を提供する存在となった。今後の企業や研究者は、自身の用途や制約を踏まえ、この新しい選択肢を真剣に検討すべき時期に来ている。
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